叔母が具合悪いらしい。
母のすぐ下の妹です。先日我が家に遊びに来てくれた従姉妹の母親。すぐ下と言っても間にもう一人妹がいたが
幼くして亡くなったらしいので、叔母と母は6歳離れているんです。
母にとっては一番親しんだ妹だと思います。
私の両親は、戦前父が満州鉄道に勤めていたので、今で言う北朝鮮のどっかの街(羅津だったかな)にいたらしいのです
が、最初のお産の時、叔母は遥々日本から手伝いに来てくれたらしい。
以前記したかもしれませんが、母は満州からの引き揚げの時、次女、三女を亡くし、帰国してかなりたってから長女を亡く
しています。現在残っている姉と私は無論帰国後に生まれた訳で、引き揚げのとき亡くなった姉2人は全く知らないので
す。長女は私が高校1年の時亡くなりました。天地がひっくり返るような大きなショックでした。これまでの人生で
あんなに打ちのめされた事はあのとき以外にありません。
姉の人生病気との闘いでした。幼い時の過酷な引き揚げ体験がそうさせたのです。
本当に戦争って酷いものです。
姉が亡くなった時、母はびっくりするほど気丈に振舞っていました。悲しみにくれる私にはとてつもなく非情な人間
に見えました。
その母が叔母には機関銃の如く姉の話をしていました。悲しい胸の内を吐き出すかのようで、よく覚えているのです。
因みに母が現在姉の話をすることはありません。また引き揚げの時の悲惨な状況を、母の口から聞いたこともないのです。
叔母は全く陽気で明るい人です。たまに会うだけですが、塞ぎ込んでいるのを見たことがありません。母の心の支えだっ
たかも知れません。
今回母と同じく肺炎を患ったのですが、最初熱はあったものの元気で、従姉妹が病院のベットの上で踊ってると言って
「やっぱし血だねえ、肺炎くらいじゃびくともしないんだねぇ」と笑い合っていたのです。
でも、やはり95歳。叔母の容態は悪化、肺は真っ白で今やおばほとんど眠っているだけなんだそうです。
悲しいことなのですが、「しょうがないよ。無理して苦しい治療ほどこすよりは自然に・・・」と我々は言い合いました
。叔母の気持は推し量る以外ありません。もしかしたら、「何がなんでも生きていたい」と思っているかもしれません。
我々ならもう治療は望まないし、叔母もきっとそうであろうと言うだけのことです。
どんな人間も行きつく先は死です。出来ればそこへ満足した気持でたどり着きたい。
世の人々はどうなんでしょうか?
この長生きの時代、私の母のようにその判定もできなくなって逝ってしまう人が多いのではないでしょうか?
叔母はまだ母ほどの認知症ではないようです。娘たちやその家族に囲まれて、その幸せを感じられているでしょうか。
そうであってほしいのです。